アントニオ・G・イトゥルベ【アウシュヴィッツの図書係】を読みました。
この前「何時紹介できるかなー」って書いてたのにね。
だって仕方ないよね。
頁をめくる手が止まらなかったの!
そんな訳で、今日はこの本の感想&紹介記事です。
本屋で表紙買いした翻訳小説。
面白かったの一言で済ませるのは簡単なんですが、「対比表現」が見事でストーリーもさることながら、そっちに注目して読んでました。
本の紹介文を引用しておきますね。
1944年、アウシュヴィッツ強制収容所内には、国際監視団の視察をごまかすためにつくられた学校が存在した。そこには8冊だけの秘密の“図書館"がある。
図書係に任命されたのは、14歳のチェコ人の少女ディタ。その仕事は、本の所持を禁じられているなか、ナチスに見つからないよう日々隠し持つという危険なものだが、
ディタは嬉しかった。
彼女にとって、本は「バケーションに出かけるもの」だから。ナチスの脅威、飢え、絶望にさらされながらも、ディタは屈しない。
本を愛する少女の生きる強さ、彼女をめぐるユダヤ人の人々の生き様を、モデルとなった実在の人物へのインタビューと取材から描いた、事実に基づく物語。
※ここからネタバレを含めての感想です! これから読もうとしている方はご注意下さい!※
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物語の舞台は本のタイトルにもあるように「アウシュヴィッツ強制収容所」です。
ここがどんな場所なのか。どんな目的で作られたのか。
それらのことについては
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 - Wikipedia
この辺りのリンク及びネット上の情報、または先人たちの研究・証言を参照していただくとして。
この本の主人公は紹介文にもあるようにチェコ人の女の子、ディタちゃん。
この子、超強い。
寝床を確保するために自分の数倍はある大柄な女に啖呵きったり。
囚人たちの恐怖の対象となっているメンゲレ
(色々人体実験をする方……詳しくは
に目をつけられているかもしれないと思っても、怖がったりせず堂々としていたり。
いやあ、強いわ。
14歳に思えない。
そんな彼女の視線+対比表現でこの物語は進んでいきます。
さっきも書いたんですが、本当に対比表現が見事(豊かと言ってもいい)なんですよ。
例えば、「子供」と「大人」の対比。
それはディタの回想シーンで描かれます。
読書めも。
— あやと@トンベリCrew (@ayato_uw_berry) 2017年11月27日
人でないものを怖がるのが子供。
人を怖がるのが大人。
初めてナチス軍を見るまで、ディタが怖がっていたのは町の時計台でした。
祖母から聞いた「あの時計台を作った人は色々な人から同じものを作れと言われた。それが嫌になって作った人は歯車の中に腕を突っ込んで、もう二度と時計台を作れないようにした」という話にものすごく恐怖を感じています。
そんなディタがナチス軍を見ておびえる母親を見て、自分も怖くなる。母親をそういった表情にさせた彼らが急激に怖くなる――。
そしてディタは時計台が怖くなくなった。
回想終了後、ディタは思います。
「あれが、子供時代との別れだった」と。
(うまくまとめられない。もどかしい)
こういった対比が本の中ではたくさん出てきます。
メンゲレに睨まれたことに少し臆病になって、図書係をやめようかとディタが悩む時には「英雄的行為」と「諦めること」の対比。
読書めも。
— あやと@トンベリCrew (@ayato_uw_berry) 2017年11月28日
英雄的行為を評価するのは簡単だ。
けれど、あきらめるという勇気は誰が分かってくれるのだろうか。
学校のリーダーである青年、ヒルシュ。
ディタは、かっこよく、毅然とナチスに立ち向かうヒルシュに憧れを抱きます。
けれどそんな彼がナチスの兵士と会っていた。
スパイ行為を疑ったディタだったけれど、彼らは特別な関係なだけだった。
それを知って失望するディタ。けれど思い直します。
読書めも。
— あやと@トンベリCrew (@ayato_uw_berry) 2017年11月30日
王子様をなくしたのは辛いことだけれど、リーダーは失ってはいない
あんまりこういうの、私は日本の小説を読んでいて遭遇したことがありません。
そしてこの鮮やかな対比は何よりもアウシュヴィッツという「非日常」と思春期の女の子の「日常」を描く時に使われています。
「非日常」の方は……ほら、ガス室とか……あの辺りのことです。
それと対になるのは「日常」では、ディタは友人のマルギットと恋愛話をします。あの班のだれだれがかっこいいとか、だめだとか。
ああこの頃って、そういう恋愛話するよね。
あと、印象に残った「日常」の描き方として。
ディタがある少年(年の頃は同じ)と取引をするシーンがあります。
ディタは「私のパンをあげるから」って言うんですね。
それに対して相手の少年は「それとお前のおっぱいを触らせろ! それが条件だ!」って言うんですよ。
おっぱい。
この極限の状態の中で。
おっぱい。
いやー何時の時代も、思春期の少年って変わらないねえ。
ちょっと笑っちゃいました。
とこんな感じで「非日常」と「日常」を見事に描き分けながら、お話は進んでいくですが。
ある時。
リーダーのヒルシュが死んでしまいます。
(正直嘘だろって思いましたよ……)
当然ディタは落ち込みます。
それをミリアムという先生が励まします。その励まし方が見事。ここは是非読んでいただきたい。
ヒルシュが居なくなっても学校は続きます。
そんな中、ディタは新しい「生きた本」(物語を喋れる人)を見つけます。
その本は「モンテ・クリスト伯」。
この本が出てきた時、私は「え、もしかしてヒルシュ生きてる?」と思いました。
(モンテ・クリスト伯の中に死体を身代わりにして生き延びた男の話があったので)
まあ、それは無残に打ち砕かれましたが(当たり前)。
読書めも。
— あやと@トンベリCrew (@ayato_uw_berry) 2017年12月1日
これ伏線かなあ……アウシュビィツにモンテ・クリスト伯……。いやほぼ一人称で書かれている小説だし……まさかねーミステリーの読みすぎだよねー。
……でもハッピーエンド期待。うう。
そしてこの後が。
読むのがちょっと辛くなってきます。
学校は無くなり、ディタはマルギットとも離れ離れになり、ベルゲン・ベルゼンというアウシュヴィッツよりももっと劣悪な環境へと移されます。そこで死体を運ばされたり、病気にもなったりして……この辺り「日常」の描写が全くないんですよ。「非日常」ばかり。アンネ・フランクの話とかも出てきたり……いやはや辛かった……。
もうそろそろ本当にダメかもしれない。
母さんの病気も重くなる一方だし。
そうディタが思い始めた時、収容所は解放されます。
普通、抑圧されていて解放されたなら
「やったー! 自由だー! ひゃっほー!」ってなりそうなもの
(実際、解放した兵士たちもそう思ったらしいです)ですが、
解放された人々の多くはこう言います。
「どうして、もっと早くきてくれなかったの……」
ディタがそう言った描写はありませんが、彼女もそう思っていたのかもしれません。
読書めも。
— あやと@トンベリCrew (@ayato_uw_berry) 2017年12月1日
ミリアム先生かっこいい。
希望の一つ手前で絶望の絶望に落とされる。読むのが苦しい。
解放された時、そこにあるのは純粋な喜びではなかった。そこからまた新しい戦いが始まる。絶望の中の希望。希望の中の絶望。
そしてお話はディタがマルギットと再会するところで、幕を閉じます。
登場人物全てが幸せになるといった完全なハッピーエンドではありません。
でも笑い合うディタとマルギットを見て、良かったとほっと一息つきました。
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アウシュヴィッツという地獄よりも地獄の世界で戦った一人の少女の物語。
是非、読んでみて下さい。
(文庫化希望)
おお……3000文字超えたよ……初だ……。